第14回 性〇説の話


 

「仏教というものは性善説なのですか?それとも性悪説なのですか?」

 

ある日、檀家さんにこのような質問をされました。

 

「性善説」とは昔の中国の思想で、「人は生まれた時はみな、善である」という考え方です。

 

「性悪説」とは、これも中国で同じころに出た思想で、「人は生まれた時はみな、悪である」という考え方です。

 

「仏教ではこの性善説と性悪説、どちらを推すのですか?」と、その檀家さんは質問なされた訳です。

 

 

そもそも、善と悪とは何でしょうか?

 

自分の都合の良いものが善であり、自分に都合の悪いものが悪ということになるのでしょうか?

 

例えば雨が降ったとして、外出しようとしていた場合、雨は鬱陶しく感じます。

 

これは悪ですね。

 

しかし、マラソン大会がある時には雨は喜ばしいものになります。

 

これは善です。

 

秋のきれいな紅葉を見て「きれいだなー」と感じたなら、これは善です。

 

しかしこの大量の落ち葉を掃除しないといけないのか…とがっかりします。

 

これは悪です。

 

雪が降ってスキーができると思った(善)けど、降りすぎて大雪になり、中止になり、雪かきまでしなくてはいけなくなった(悪)。

 

毎日迎える朝ですら、仕事の日と休日では感じ方が違ってくると思います。

 

このように私たちの世界では自分の気持ち、環境などで善悪は簡単に入れ替わってしまうのです。

 

本当は同じことが起こっているのに、人間は「自分のものさし(経験、気分、自我)」で、ついつい物事の善し悪しを計ってしまいます。

 

『この世界で起こっていることは一定です。何が起こっても右往左往そんなに振り回されないようにしましょう』というのが仏教の教えです。

 

私達は「自分のものさし」でなく、「仏様のものさし」を使うようにしなくてはなりません。

 

仏様のものさしとは、我々凡夫のものさしとは違い、メモリがついていません。

 

善いとか悪いとか、数値を測る気が全くないのです。

 

雨が降ったら雨が降ったでそれを受け入れる。

 

紅葉を見たらそれをそのまんま受け入れる。

 

雪が降ったら、朝が来たら、それをそのまま受け入れる。

 

自分のものさしで善いとか、悪いとか、量らずに、物事をそのまま受け入れるようにしましょう。

 

なにものも分別(ふんべつ)しない「仏様のものさし」を使いましょう。

 

それが苦しみから離れるための智慧なのです。

 

 

そういうことで、最初の質問です。

 

仏教は性善説か性悪説かという質問ですが、仏教では善悪を決めるのは自我であると教えています。

 

つまり自我の薄い、生まれたばかりの赤ちゃんは、分別心なく、善悪の概念もない、仏様のようにきれいな心をしているのです。

 

このきれいな心を、仏教では、清浄心(しょうじょうしん)とよびます。

 

よって、

 

「仏教というものは性善説なのですか?それとも性悪説なのですか?」

 

という質問の答えは、

 

「あえて言うなら、仏教は『性清浄心説』です」とお答えさせていただきました。

 

 

最後に、一休さんの歌を紹介します、

 

おさな子が  しだいしだいに知恵づきて

仏に遠く  なるぞ悲しき

 

善いとか、悪いとか、そういうものに振り回されない、赤ちゃんのような心を持って日々を過ごしていただけたらと思います。

 

 

 

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