第32回 お経の話②


 

「お経の話①」の法話で、お経を読むときに大切なことは、

 

一つに「一生懸命に読むこと」

一つに「無心で読むこと」

 

であると説明させていただきました。

 

無常迅速、諸行無常のこの世の中で、手を抜いてお経を読んでいる暇などありません。

 

一回一回、一文字一文字を、一生懸命大切に読みましょう。

 

また、一心に、無心にお経を読むことも大切です。

 

何も考えずお経を読む。

 

自分を忘れ、娑婆を忘れ、お経文と一つになれば、そこは浄土に変わるのです。

 

 

時宗の開祖である一遍(いっぺん)上人(しょうにん)は念仏を広めるため、日本全国を巡り続け、その生涯でお寺に定住することはなく、民衆のためにと念仏を唱え続けました。

 

その一遍上人があるとき、法燈国師という禅宗の和尚さんに参禅(禅について問答すること)をしたことがあったそうです。

 

このとき、一遍上人は次のような歌を作って、法燈国師に差し出しました。

 

 

となふれば 仏もわれも なかりけり

 

南無阿弥陀仏の 声ばかりして

 

 

法燈国師はこの歌に対して「未徹在(みてつざい)(まだまだ禅の境地を徹底していない!)」と評しました。

 

そこで、一遍上人は改めて次のような歌を提示します。

 

 

となふれば 仏もわれも なかりけり

 

南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ

 

 

法燈国師は「よし」と、この歌を認め、一遍に印可のしるし(修了証書)を与えたそうです。

 

 

「南無阿弥陀仏の 声ばかりして」「南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ」になっただけですが、この違いは決定的なものとなります。

 

「南無阿弥陀仏の 声ばかりして」では、まだそこに、声を聞いている自分、『われ』が残っているのです。

 

声を聞いているということは「まだまだ『われ』と念仏が一つになっていない」ということです。

 

しかし、「南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ」では。『われ』というものが完全になくなっています。

 

100%南無阿弥陀仏です。

 

念仏と自分が完全に一つになっている一遍上人のこの境地を、法燈国師はお認めになられたのです。

 

 

この一つになるという境地は、なにも念仏にだけ限ったことではありません。

 

お経でも同じです。

 

般若心経を読むときは般若心経と一つになる。

 

観音経を読むときは観音経と一つになる。

 

自分という『われ』から離れ、お経と一つになり、お浄土にたどり着く――

 

我々はその境地を目指さなければならないのです。

 

 

 

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参考文献

仏教とっておきの話366 夏の巻

新潮文庫 (1995/6/1)

ひろさちや(著)

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