第25回 カエルの話


 

 

友達同士の2匹のカエルが、牧場で遊んでいました。

 

ふと、目の前にバケツが置いてあるのを見つけます。

カエルたちはそのバケツに興味をもったので、よじ登って上から覗いてみました。

するとピカーッと光が反射して、中に水が張ってあることがわかりました。

 

2匹は少し遊び疲れていたので、その中に飛び込んで一泳ぎしようと、

同時にバケツの中に飛び込みました。

 

バシャーーン。

 

 

 

しかし、飛び込んだところで、はっと気づきました。

 

これ、水じゃない?!

 

牧場に置いてあるバケツ、中身は牛乳だったのです!

搾りたての牛の乳が溜められたバケツに、カエル達は飛び込んでしまったのです。

 

「これはいけない」と2匹はフチまで泳ぎ、よじ登って逃げようとしました。

 

しかし、ぬるぬると滑って登れません。

 

泳いで別の方から登ろうとしてもダメです。どこから登ろうとしても滑って登れません。

 

2匹は困ってしまいました。

 

しかし、とりあえず泳いでさえいれば、浮いていれます。

2匹はバケツの中をバシャバシャと、泳ぎ続けることになったのでした。

 

30分経ちました。

まだ、誰も助けに来てくれません。

 

1時間経ちました。

まだまだ、ぜんぜん、誰も助けに来てくれません。

 

どんどん時間が経ち、2匹はかなり疲れてきました。

 

友達同士だったカエルたちはお互いに、「がんばれ!」「諦めるな!」と励ましあってなんとか泳ぎ続けました。

 

 

 

そこからさらに時間が経って…ついに片方のカエルが言いました。

 

「もうヘトヘトで手も足も動かなくなってしまった…棒のようになってしまった。こんなに苦しいなら死んだ方がましだ…」

 

そういって、手を動かすのをやめてしまいました。

 

動かなくなったカエルは、ずるずると沈んでいってしまいました。

 

残されたカエルはそれを見て言いました、

 

「ああ…自分も同じだ。もう少し時間が経てば、彼と同じで、自分も沈んでしまう運命なんだ…なんと悲しく苦しいのだろう…」

 

しかし、一応手足は動かせています。

 

残されたカエルは何とか泳ぎながら考えました。

 

確かにしばらく経てば自分は疲れて沈んでしまうだろう。

しかし、まだ手足は動いている。

動いている限りは浮いていられる。生きていられる。

ならば、生きている限り泳いでみよう。

生きている限り、生きてみよう。

この命ある限り、生きている証で泳いでみよう!

 

カエルは覚悟を決めました。

 

 

 

 

覚悟を決めて泳ぎだすと、いつの間にか泳ぐことだけに集中しています。

 

バシャバシャ、バシャバシャ。

 

何も考えられません。

 

バシャバシャ、バシャバシャ。

 

ただ手足を動かし泳ぐだけ。

 

バシャバシャ、バシャバシャ。

 

カエルはただ無心に、手足を動かし、泳ぎ続けました。

 

「この先どうなるのか?」、「いつまで泳いでいなければならないのか?」、先ほどまで悩まされていた、それらの不安も、消え去っていました。

 

 

 

そうすると、だんだん泳ぎが乗ってきます。

 

泳ぎが乗ってくると少し波が生まれます。

 

その波に乗ると、さらに波が生まれ、またその波に乗ることで、どんどん楽に泳げるようになってきます。

 

そしていつの間にか泳いでいることと、自分とが一つになってきました。

 

泳いでいるのか、泳いでいないのか、手を動かしているのか、動かしていないのか、分からないぐらい一つになったのです。

 

 

 

相当な時間が経ちました。

 

まだ彼は泳いでいる格好をしています。

 

しかし、ふと何かに気づきました。

 

気づいたカエルは、

 

バケツの中、

 

今まで泳いでいた牛乳の上を、

 

てくてくと歩き、

 

バケツのフチを登り、

 

カエルはポン、と外に飛び降りたのです。

 

助かったのです。

 

これはいったい何が起きたのでしょうか?

 

 

=シンキングタイム=

 

 

 

そうです。

 

これは牛乳がバターになったのです。

 

カエルは一生懸命泳ぐことによって無駄な力がなくなっていました。

 

そうすると自分で作った波に乗ります。

 

波に乗るということはさらに波を作るのです。

 

バケツの中で波が立ち、牛乳は自然に撹拌されたのです。

 

長い長い時間、長時間の撹拌の結果、牛乳はバターに変わり、カエルは助かったという話です。

 

 

 

この話の大事なところはカエルの心の変化です。

 

このカエルはただ覚悟したのです。

 

「今、幸いにも生きている。まだ泳げている。ならば、命あるかぎり泳いでみよう。命のあるかぎり生きてみよう」

 

そう決めたあと、カエルはもう何も考えませんでした。

 

生き残ろうとすら思わず、無心で手足を動かし続けたのです。

 

 

集中して集中して集中三昧になれば、泳いでいることすら考えなくなってくる。

 

いつの間にか波が生まれ、波に乗って、その波によってバターができて、生かされる。

 

一生懸命ただ無心に行う。

 

この行動によって、カエルは救われたのです。

 

無理をする必要はないのです。

助けを呼べるなら呼びましょう。

逃げれるものなら逃げましょう。

 

しかし、私たちにはどうしてもままならない事態というものに、遭遇することがあるのです。

 

逃げれるものなら逃げ出したい、しかし、どうしても逃げられない事態というものに遭遇することがあるのです。

 

入ってみたら牛乳だった。

いつのまにか牛乳に浸かっていた。

牛乳まみれになっていた。

どうしても逃げることは出来そうにない。

助けてくれる人もいない。

 

そういう時は、もう覚悟を決めて、カエルのように無心で、一生懸命生きていくしかないのです。

 

余計なことは思わず、今できること、今に精一杯力を尽くす。

 

これが大事なのです。

 

バケツの中に入ってしまって、中が牛乳だった。

これはもうしょうがないのです。

そのあと、どうするか?これが大事なのです。

 

一生懸命に徹すれば、それが活路になり、その場をお浄土に変えることもできるのです。

 

あっちへふらふら、こっちへふらふら、

こーなったらどうしよう、あーなったらどうしよう、

そんな余計なことは考えず、余計な不安は増やさずに、

 

無心に一つを行う、一行三昧です。

 

このカエルの物語、たまにでも思い出していただけると、ありがたいです。

      

 

 

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参考文献

無門関提唱

春秋社 (2015/1/31)

山川宗玄(著)

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